金ちゃんの本音と建て前+plus

エス・デザイン代表のブログ

バレー男子16年ぶり、五輪出場決定

バレーボール男子の北京五輪世界最終予選兼アジア大陸予選で

日本(世界ランク12位)がアルゼンチン(同6位)を3−2で破り、

4大会ぶり8度目の五輪出場を決めた。

過去の五輪で計三つのメダルを獲得したかつての「お家芸」が

鮮やかな復活となった。

 

ひと

16年ぶりに五輪出場を決めた日本男子バレーの主将

荻野 正二(おぎの まさじ)さん(38)

 

試合を決める最後のスパイクを自ら放った。

「ここまで続けてよかった」。

北京五輪出場を決めた後、チーム最年長の主将は涙が止まらなくなった。

 

サイドアタッカーとして92年、バルセロナ五輪の6位入賞に貢献。

その後、日本男子バレーは五輪から遠のいた。

中心選手として責任を感じたが、両ひざを手術した98年を最後に

全日本には呼ばれなくなった。

 

転機は05年に訪れた。

「若手に模範を示してほしい。おれと一緒にやってくれ」。

就任したばかりの植田辰哉監督に誘われた。

すでに35歳。引退も考えていた。

だが六つ年上で、バルセロナで主将を務めた先輩は譲らなかった。

「1年だけやります」と答えた。

チームの土台を作って去るつもりだった。

 

監督が課す練習は過酷で、時間も長い。

でも、主将の自分が先に音を上げるわけにはいかない。

「ここを乗り越えれば、明日は休みや」。

週に1度はひざに痛み止めの注射を打ちながら、気が付けば3年間、

チームをずっと引っ張ってきた。

「五輪に出れば人生が変わる」と若手にげきを飛ばす監督とは違い、

「背中で見せる」姿勢を貫いた。

 

今大会、先発出場は一度もなかった。

年長の自分に頼らないチームに成長したことはうれしかったが、悔しさもある。

「僕も北京でもう一花咲かせます。まだまだ若手には負けられません」。

ユニホームを脱ぐのはその後でいい。

 

文・平井隆介 朝日新聞2008年(平成20年)6月8日朝刊より

 

植田 辰哉 監督は、僕と同じ1964年生まれである。

大学時代、インカレ(大阪府立体育館)で、大商大のエース・プレイヤーの彼を、

羨望のまなざしで見ていた記憶がよみがえる。

だからこそ、同じ時代をすごした彼のチャレンジは、今後も応援したい。

 

前回のブログでも触れたように、僕は社会人バレーチームのフロントを

引き受けた。

福岡発、まずは九州一のチームにし、次に全国的に通用するチームづくり、

コレをぜひ、やりたい!

 

これから、バレーボールの時代が始まる!!